嫌われる勇気を理解しよう4 課題の分離
嫌われる勇気を理解しよう第4弾です。
今回は「課題の分離」について書きます。
※ちなみにこの課題の分離なしには、前回の「愛のタスク」は達成できません。多分。
まず、私たちは
他者の希望を満たすために生きているのではない
です。それと同時に
他者は自分の希望を満たすために生きているのではない
です。
アドラー心理学では、目の前の課題(ex.勉強するしない、就職するしない、結婚するしない...)に対して、
これは誰の課題なのか?
を考えます。
誰の?とは
その選択(勉強するしない、就職するしない、どこに就職する、結婚するしない、誰と結婚する...)によってもたらされる結末を最終的に引き受ける人は誰か?です。
例えば、
子供が勉強しない、で、ゲームをするという選択をすることは
子供の課題であり、親の課題ではない
子供が結婚するかどうか、誰と結婚するかは
子供の課題であり、親の課題ではない
旦那が仕事を辞めるかどうか、は
旦那の課題であり、妻や旦那の親の課題ではない
ちょっと色んな角度から語ってみると、
「子供が親の望む職に就かなかった、親は反対した」という事実があったとして
子供がどの仕事に就くかは子供の課題
そしてそれに対して、
親が子供の仕事に不満、というのは親の課題
です。
親は子供の課題(どの仕事に就くか)に土足で踏み込めない。しかし、不満を持つのは自分の課題なので、不満に思おうが自由。
子供はどの仕事に就くか自分で決めて良い、自分の課題なのだから。でもそれに対して親が反対することは仕方ない、それは親の課題だから。
他者をコントロールしようとすること
は
課題の分離ができていない状態
そして
他者の課題に土足で踏み込む
自分の課題に土足で踏み込まれるとき
に対人関係の問題が起こるのです。
特に親子、夫婦、恋人など「愛のタスク」の関係、つまり深い人間関係になるほど、課題の分離は難しいです。
しかし、
関係が深いからこそ、課題の分離が不可欠なのです。
課題の分離というと、「人は人、私は私、人のことなんか知ーらない!」みたいな放任主義のように聞こえるかもしれませんが、
課題の分離と放任主義は違います!
課題の分離は、その人に無関心の状態ではありません。
例えば、子供が勉強しないという事態があったとします。
子供が勉強しないことは、子供の選択であり、子供の課題です。
親としては、それは子供の課題であることを伝える、変に干渉しない。でも子供が勉強したい、勉強でなくても何か助けが欲しいというときは、いつでも援助する用意があることを伝える。
これが課題の分離です。
信じるという行為は課題の分離です。
相手のことを信じることは自分の課題。
自分の期待や信頼に対して、相手がどう振る舞うかは相手の課題。
相手が自分の希望通りに動いてくれなくても、なお、信じることができるか、愛することができるか。
これが愛のタスク。
愛って深い。。。
課題の分離は難しいけど、これができて初めて人を愛せる気がします。